訃報

【北海道日本ハムファイターズ】レアード帰国、米銃乱射事件でいとこ死去

日本ハム・レアード帰国 米銃乱射事件でいとこ死去

 日本ハムのブランドン・レアード内野手(30)が4日に米国へ帰国することが3日、決まった。

 いとこのクリスティーナ・ドゥアルテさん(22)が、米ラスベガスで起きた銃乱射事件に巻き込まれ、命を落としたため。2日夕方から安否の確認が取れず、この日の早朝に死亡したことがわかったという。

 本人が帰国を希望するとともに、球団もそれが最善と判断し、シーズン終了を待たず帰国することになった。この日はオリックス戦が予定されている札幌ドームに姿を見せたが、栗山英樹監督(56)はじめ球団関係者にあいさつし、練習には参加せず、無言で帰宅した。

【中日ドラゴンズ】森監督、長女麗華さん通夜参列のため試合途中で退く

森監督、長女麗華さん通夜参列のため試合途中で退く

<中日7-2ヤクルト>◇13日◇ナゴヤドーム

 中日は2回終了後に森繁和監督(62)が試合を退き、森脇浩司内野守備走塁コーチ(57)が監督代行を務めるとした。責任審判の森三塁塁審が2回終了後に場内へアナウンスした。

 森監督が7日に乳がんで亡くなった長女麗華さん(享年35)の通夜に参列するため。チームを離れ、通夜が営まれる横浜市へと向かった。

 西山和夫球団代表は「ここは休んでもらおうと思っていた。森監督が『チームと一緒にいたい』という気持ちだった。ただ、通夜告別式は娘を見送ってあげたいということだったので。事前にヤクルトの真中監督にも承諾してもらった」と説明した。

【中日ドラゴンズ】森監督の長女乳がんで死去

中日森監督の長女乳がんで死去「運命と覚悟してた」

<中日1-1広島>◇8日◇ナゴヤドーム

 中日森繁和監督(62)が、悲しみの中、気丈にタクトを振った。長女の矢野麗華(やの・れいか)さんが、前日7日に乳がんのために川崎市内の病院で、35歳の若さで亡くなった。それでも、いつもと変わらず柔和な表情で指揮した。試合2時間前の午後4時。ロッカー室に選手、スタッフ全員を集め、悲しい事実を伝えた。

 「(6日まで)東京で試合があったし、月曜日で休みだったし、久しぶりにゆっくり時間を過ごせた。天命、運命と思って俺は覚悟していた。1人だとどうしてもつらくなる。みんなには試合前に、1人にはせず、ユニホームを着て一緒にやらせてくれと言ったんだけどな」。試合後、少し声を震わせて言葉を絞り出した。6日の東京ドームでの試合後、名古屋には帰らず、寄り添った。いったん持ち直したと思い、新幹線に乗ったが、連絡を受けて名古屋駅で引き返したという。

 勝ちたい。この日は選手たちの気合が違った。先発の鈴木は7回1失点。監督は7月23日の広島戦でKOされた右腕を試合中、名古屋に強制送還していた。それ以来の再起戦。同じ広島相手に7回1死、菊池に中前打されるまで無安打投球を演じた。「翔太があれだけの投球をしてくれた。もう1回、はい上がってくる力。すぐに呼び戻せる状態になるヤツの方が俺は好き。今日は、そういうのが見えた」。意地を見せた22歳に、温かい目を向けた。

 8回以降は継投でしのいだ。電撃トレードを成立させた谷元から田島、伊藤、岩瀬、又吉と無失点リレー。延長12回まで戦い抜いた。04年に中日の投手コーチに就任して以来、ヘッドコーチ、監督も含めて合計12年。苦楽をともにした選手たちが必死に腕を振り、強力打線に立ち向かった。「勝てれば一番よかったが、勝てなくても広島相手にこういう試合ができたのがね」。62歳の将は笑みを浮かべて、会見場をあとにした。【柏原誠】

【埼玉西武ライオンズ】投手コーチの森慎二さん急死

西武コーチ森慎二さん急死、辻監督沈痛「つらい」

 西武森慎二1軍投手コーチが28日午後0時10分に多臓器不全のため、福岡市内の病院で死去した。西武球団が発表した。42歳だった。同コーチは25日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)前に体調不良を訴えて入院。そのまま帰らぬ人となった。急な悲報に辻発彦監督(58)らは深いショックを受けていた。通夜、告別式の日程は未定。

 突然の訃報だった。沖縄セルラー那覇でのロッテ戦後。ベンチ裏に首脳陣、選手を含めたチーム関係者が集められ、鈴木球団本部長から、森投手コーチの急逝が伝えられた。その後、同本部長から報道陣に対し「西武ライオンズの森1軍投手コーチが、今日28日午後0時10分に亡くなりました。(死因は)多臓器不全です」と説明があった。

 森コーチは25日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)前に体調不良を訴えた。選手宿舎から同球場に移動した直後の時点で顔は真っ青で、脂汗をかいているような状態だったという。血圧などをチェックした後、グラウンドには出ず、福岡市内の病院に向かい検査。そのまま入院し、帰らぬ人となった。あまりに急な訃報に、鈴木球団本部長は「前日まで元気にしていたから…。急に、ということです」と話した。

 辻監督もショックを隠せなかった。同コーチが25日に福岡市内の病院に入院してから「電話がある度にビクビクしていた。心配していたんだけど…。ショックです」。時折、目頭を押さえながら、沈痛な面持ちで明かした。

 同監督だけには、この日の試合前練習後に球団から森コーチの死去が伝えられていた。「数日前まで一緒に戦ってきた仲間。優勝を目指して頑張ってくれていたし…」と言葉を絞り出した。同コーチのためにも勝利を、という思いを1人、胸の内に秘めて指揮を執ったが、試合は延長戦の末に惜敗。残念ながら白星を贈ることが出来なかった。「今日は本当に勝ちたかったんだけど。投手もみんな頑張ってくれていたし。つらいです」と、唇をかみしめた。

 通夜、告別式の日程は未定。球団としての対応も決まり次第、発表される。昨季途中から1軍投手コーチに就任し、ブルペンを担当。投手陣の良き兄貴分として慕われていた。選手たちはみな悲しみをこらえ、無言で帰りのバスに乗り込んだ。42歳。あまりに若すぎる死に、チームは悲しみにつつまれた。

 ◆森慎二(もり・しんじ)1974年(昭49)9月12日、山口県生まれ。岩国工から新日鉄光、新日鉄君津を経て96年ドラフト2位で西武入団。プロ1年目からリリーフで活躍。02年にはリーグ最多の71試合に登板し32ホールドをマーク。03年も26ホールドで2年連続最優秀中継ぎ投手。06年1月にポスティングシステムで大リーグのデビルレイズ(現レイズ)に移籍。同3月20日、マイナーリーグのフィリーズ戦に先発し、3球で右肩を脱臼。関節唇損傷で回復が遅れ、大リーグ未登板のまま07年6月に解雇。09年、BCリーグ・石川の選手兼コーチとなり10年から監督。15年に西武2軍投手コーチ就任。16年途中から1軍コーチに昇格した。189センチ、90キロ。右投げ右打ち。

【埼玉西武ライオンズ】辻監督の父1日死去

西武辻監督の父1日死去 チーム離れず指揮 

 西武は2日、辻発彦監督(58)の実父、廣利さんが1日午後10時23分、佐賀県内の病院で心不全のため死去したと発表した。86歳だった。

 同監督は就任後初の春季キャンプのため、31日からチームとともに宮崎・南郷入り。1日もキャンプ初日のチームの練習で陣頭指揮を執っていた。球団によると、通夜、告別式のためにチームを離れる予定もないという。

【訃報】元阪急のスペンサー氏が死去

元阪急のスペンサー氏が死去、「野球博士」の異名

 米カンザス州ウィチタのメディアによると、元プロ野球の阪急(現オリックス)で内野手として活躍したダリル・スペンサー氏が2日に88歳で死去した。

 米大リーグ、ジャイアンツなどで活躍し、64年に阪急に入団。

 豪打と頭脳プレーで「野球博士」の異名をとった。65年には3冠王に輝いた南海(現ソフトバンク)の野村克也氏と本塁打王を争った。

 阪急では通算7年間で731試合に出場して打率2割7分5厘、152本塁打、391打点。大リーグでは通算10年間で1098試合に出場して打率2割4分4厘、105本塁打、428打点だった。

【OB】元巨人の加藤初さん死去「最後まで野球人でした」

元巨人の加藤初さん死去「最後まで野球人でした」

 巨人は20日、OBで通算141勝右腕、加藤初(かとう・はじめ)氏が今月11日午後、直腸がんのため静岡県内の病院で死去していたことを発表した。66歳だった。加藤氏は1972年(昭47)に大昭和製紙(現日本製紙)から西鉄(現西武)に入団。1年目に17勝16敗で新人王に輝き、76年にトレードで巨人へ移籍した。同年4月にノーヒットノーランを達成し、シーズン15勝4敗で前年最下位からの優勝に貢献した。ピンチにも顔色を変えず投げ抜くことから「鉄仮面」と呼ばれた名投手だった。

 寡黙に投げ続ける姿で「鉄仮面」と呼ばれ親しまれた加藤氏が、静かに息を引き取った。11日午後、直腸がんのため10月下旬から入院していた静岡県内の病院で死去した。66歳だった。葬儀、告別式は妻の和江(かずえ)さんを喪主として、既に執り行われた。

 約5年間に及んだ闘病生活を闘い抜いた。韓国SKの投手コーチだった11年、体調不良により退団を決断した。帰国して横浜市内の病院で検査を受けた結果、直腸がんが見つかった。既にステージは4に達し、余命は半年と告げられた。韓国へ渡った05年から体調不良が続き、体重は渡韓前から10キロ以上減っていたという。和江さんは「普段は何も言わない人が『つらい』と。相当に苦しかったんだと思います」と振り返る。

 もう1度グラウンドへ戻りたいという強い思いが、病床の体を支えた。抗がん剤治療を始め、14年には手術を決意。完治には至らなかったが、14年初夏に息子2人の住む静岡へ移住して治療を継続した。ベッドで過ごす時間が増え、意識が不確かな時も「もう練習の時間だから、用意をして球場に行かなくては」と服を着替えようとしたという。和江さんは「野球はやめたんだよと言っても、本人の中ではプレーしているようでした。意識がもうろうとした時でも『韓国に戻ってコーチをやるんだ』と。戻りたかったんだと思います。最後まで野球人でした」と話す。

 がんは4カ所に転移し、パーキンソン病も併発していた。今年に入り入退院の回数が増え、10月下旬に入院したまま帰らぬ人となった。だが余命半年の宣告にも諦めず、約5年間を全力で生き抜いた。現役時代にも、選手生命を脅かすほどの故障を克服。33歳だった83年6月、右肩の血行障害に見舞われた。右腕が胸より高く上げられなくなり、日常生活にも苦労して手術を決断。太ももの血管を右肩に移植する球界初のケースだったというが、9月末に復帰して40歳まで19年間現役を続けた。現役終盤はコーチを兼任し、引退後は韓国、台湾でもコーチを務め基本の徹底を説いた。

 球団発表のあった20日は加藤氏の67回目の誕生日だった。静岡県内の自宅には、妻、2人の息子夫婦や孫ら親族が集まり、静かに誕生日を祝ったという。

 ◆加藤初(かとう・はじめ)1949年(昭24)12月20日生まれ、静岡県出身。吉原商から亜大(中退)大昭和製紙を経て71年ドラフト外で西鉄へ入団。“黒い霧事件”と呼ばれた八百長問題で主力投手が退団した直後で、1年目からフル回転。72年に17勝を挙げ新人王を獲得した。76年に関本、玉井との2対2の交換トレードで伊原とともに巨人へ移籍。移籍1年目の4月18日広島戦でノーヒットノーランを達成し、この年15勝を挙げ長嶋巨人の初優勝に貢献。89、90年は兼任コーチとなり、90年に現役引退。95~99、01年に西武コーチ。その後は台湾、韓国でもコーチを務めた。通算成績は490試合で141勝113敗、22セーブ、防御率3・50。右投げ右打ち。

【横浜DeNAベイスターズ】南場オーナーの夫、紺屋氏が死去

DeNA南場オーナーの夫、紺屋氏が死去 53歳

 DeNAは6日、南場智子オーナー(54)の夫、紺屋勝成氏が5日に亡くなっていたと発表した。

 53歳だった。球団によると、死因は非公表としている。かねて闘病生活を送っており、同オーナーがDeNA本社代表取締役社長だった11年には、看病のため退任していた。2年後の13年に常勤取締役に復帰。15年1月に日本球界初の女性オーナーに就任していた。紺屋氏の通夜、告別式は親族のみで執り行われる。後日、お別れの会を予定している。

【OB】荒川博氏が急逝

荒川博氏が急死“道場”で日本刀素振り、世界の王へ

 元巨人打撃コーチで王貞治氏(76)を指導した荒川博氏が4日午後、心不全のため都内の病院で死去した。86歳だった。荒川氏は1953年(昭28)に早大から毎日オリオンズ(現ロッテ)に入団。現役時代は巧打の左打者として活躍し、61年に現役を引退。翌62年から70年までは巨人打撃コーチを務め、王氏に「1本足打法」を授けた。「世界の王」を生み出した名伯楽が逝った。

 突然の訃報だった。荒川氏はこの日、外出先で昼食のソバを食べた後、胸の痛みを訴えた。都内の病院に運ばれ、治療を受けたものの、心不全のため亡くなった。86歳だった。葬儀、告別式の日取りは未定という。

 王氏を「世界の王」へと導いた名コーチだった。巨人の打撃コーチに就任した62年、「王は打つ時に手が動く欠点があり、バランスも悪い。片足で立てば動けないのでは」との判断から、「1本足で打て」と指示した。7月1日の大洋(現DeNA)戦だった。王氏は右足を高く上げた新打法で本塁打を放った。その後、荒川氏が得意の合気道と日本刀を利用して王氏に命じた素振りは、遠征先の宿舎の畳をすり切らして何枚も駄目にした。

 二人三脚で「1本足打法」を磨き上げ、62年に本塁打王へと導いた。ここから「王時代」の幕が上がった。王氏との鍛錬の日々を「ホームランだけでなく3冠王のために1本足で打たせたんだ」と回想していた。

 指導を受けた王氏は、73、74年には3冠王。13年連続で本塁打王を獲得するなど通算868本塁打を放つ「世界の王」を生み出した。王氏は酒宴に参加しても、その後に荒川氏のもとに戻って素振りを繰り返したのは語り草になっている。王氏の前には榎本喜八氏を育て、後には黒江透修氏や末次民夫氏が「荒川道場」に通い、巨人のV9に貢献した。

 出会いは王氏が中学生のころだった。毎日(現ロッテ)の選手だった荒川氏が散歩中に東京・隅田公園の野球場で試合をしている王少年を見かけた。試合後、高校生だと思っていた少年が中学生だったことに、荒川氏は驚いた。王氏は荒川氏の母校、早実に進学。輝かしい物語が誕生した。

 昨年12月に入院したこともあったが、退院後は元気に過ごしていたという。近年は神宮外苑の軟式打撃練習場に姿を見せては、子供たちを教えた。無料奉仕だった。日本ティーボール協会の副会長を務め、野球の底辺拡大にも尽力した。同協会の大会やイベントには顔を出すのが恒例だったが、今夏以降は体調が優れず、不参加だった。神宮で行われる東京6大学リーグで、母校早大の応援をするのが楽しみだった。春のリーグ戦は観戦したものの、秋は応援を見合わせていたという。

 関係者によると、荒川氏は亡くなった4日も、女子ゴルフの上田桃子選手を指導する予定だった。その後は巨人のOB会に出席する予定だったという。まさに、名伯楽を貫く人生だった。

 ◆荒川博(あらかわ・ひろし)1930年(昭5)8月6日、東京都出身。早実時代にエースとして48年春の甲子園に出場。早大を経て53年から61年まで毎日-大毎(現ロッテ)で外野手としてプレー。引退後、62年から70年まで巨人コーチ。73年にヤクルト打撃コーチになり、74~76年途中まで監督。現役時代は9年間通算803試合、2005打数503安打、16本塁打、172打点、打率2割5分1厘。53年オールスター出場。監督通算127勝142敗20分け。左投げ左打ち。

【OB】山本一義氏が死去、78歳 広島で外野手として活躍

山本一義氏が死去、78歳 広島で外野手として活躍

 広島の外野手として活躍し、ロッテで監督を務めた山本一義(やまもと・かずよし)氏が9月17日午後9時4分、尿管がんのため広島市内の病院で死去していたことが3日、分かった。78歳だった。

 9月10日に25年ぶり優勝を果たした広島の祝賀ムードに水を差したくないという故人の強い意向から公表が控えられていた。葬儀、告別式は家族葬として既に営まれ、遺族の意向で供花・香典は辞退される。

 広島商から法大を経て、1961年(昭36)に広島入団。1年目から4番として、低迷するチームを引っ張った。広島がリーグ優勝した75年を最後に退団。通算1594試合、1308安打、171本塁打。引退後は広島、近鉄コーチを経て、82年から2年間ロッテ監督を務め、94年から98年までは再び広島で打撃コーチを務めた。